恐るべし、朝日連峰 下

(2002/6/15〜16)



6月16日(大朝日小屋〜朝日鉱泉)


午前6時過ぎに目が覚める。
明かり取りの天窓から、
強い太陽光線が差し込んでいる。
寝袋の中でもぞもぞしていると、
ヤマ師係長がはしごを登ってきた。

「最高の天気だぜ。
 月山から鳥海山までみんな見えるぞ」

と、言いつつバックパックからカメラを取り出して、
写真を撮るんだ、と言い残し、再び下りていった。


ぼくは、テントで寝泊まりするのが好きなので、
(と、言うより、テントで寝るために山へ行く)
山小屋に対しては多大な偏見がある。
「足腰が立たない、じじばばが泊まるところ」
「人生の退廃を生むブルジョアの巣窟」
「大自然に対する冒涜」
とか、はたまた、
「アカの他人に寝顔を見られるのがイヤ」
「お化けが出そうで怖い」
などと、
好き放題に憎まれ口をたたき、難癖をつけ、
山小屋泊りで登山をする友人にケンカを売り続けてきた。

だけど、この大朝日小屋みたいに質素な、
「避難小屋的山小屋」は、
必要な人には、必要な施設だし、
実際のところ、荒天のときにはすごく助かる。
言わば「固定されたでっかくて丈夫なテント」なのだ。

自戒の念をこめて、はっきり、言おう。
こういう目覚めも、悪くない。


ハナシはやっぱりそれるのだが、
「ホテル・旅館業的山小屋」に泊まったのは、
去年(2001年)の秋、ヤマ師係長と、
鹿島槍ケ岳へ登ったときが最初で最後である。

当初はテントで泊まるつもりだったのだけど、
天候が急変したので(大荒れになり初雪が降った)、
急遽、某山小屋に駆け込んだのね。

ビールを売っている!
しかも、生ビールまである!
そうとあれば、山小屋に入ったと同時に、
それが例え昼前でも、すぐに宴会になるは必定である。
(え?普通はならないって?何で?)

自慢じゃないが、この二人、
顔を合わせば、酒を飲んでいる、というか、
酒を飲むときしか、顔を合わせない。


某年某月某日。
新宿は東口、三越裏某店の「2時間飲み放題コース」。
(確か、1200円だった)
店員が呆れるほどさんざん飲みまくり、
時間終了とともに会計を済ますや否や、
再び席に舞い戻り、

「同じジョッキでいいから、また2時間飲み放題コースね」

と、涼しい顔でオーダー。
慌てて店の奥から出てきた店長に、

「あと2杯タダで出しますから、勘弁してください」

と、懇願される。
ユスリ、タカリか、こいつら!
(この店は、ある日突然、中華料理屋になっていた)


某年某月某日。
堕落中氏の行きつけだった、
激安で有名な、西荻窪の「戎」へ現れた二人組。
あまりに頻繁にビールを追加するので、
ここからお取りください、と
店員がビンのケースごとビールを持ってきた。
会計時、店の人が首を傾げて、
何回も計算をやり直している。
そして、申し訳なさそうに、ひと言。

「すみません、お客さん。
 こんなこと、ほとんどあり得ないんですが、
 何回計算しても、1万円超えちゃうんですう」

ったくねえ。


鹿島槍の山小屋のハナシに戻るが、
我々は飲み始めてからおよそ2時間後に、
「地獄」と遭遇することになった。

2階の喫茶室の一角に陣取ったおバカ二人組は、
最初の2杯だけ生ビールを飲んだあと、
金200円也を節約するために缶ビールに切り替え、
飲み続けていた。

500mlの空き缶が、
5本、10本、20本、と増えていく。
最初は「よく飲みますねえ」などと
相手をしてくれた山小屋のおねえちゃんの顔から、
みるみる微笑みが消えていき、
奥に姿を消したと思ったら、
管理人らしきおっさんが出てきて、ひと言。

「これ以上飲まれると、
 営業に支障をきたすので、
 すみませんが、もう止めてください」

中途半端でビールを打ち切るほど、
非人道的な行為はないぞ!
この世に神はいないのか!

生の中ジョッキ、1杯900円……。
500mlの缶ビールは、1杯700円……。
そして、宿泊費は、ひとり7000円……。
当然のことながら、出費もすごかった。
ビールを飲まなきゃ、3泊できたよ。

あ、酒の話をしている場合じゃないんだ。
そう、朝日連峰のことを書いているんだよね。
ごめんなさい。
大朝日小屋に戻ります。

ワープ。


カップパスタ(!)の朝食のあと、
そそくさと出発準備を整え、
小屋に備え付けのサンダルを引っかけて、外へ出る。
登山靴は昨日の雨でびっしょりで、
逆さにすると、水が流れ落ちる有り様なのだ。

鋼鉄の扉の向こうから飛び込んできた風景、
いやあ、感動的だったなあ。
みなさん、読みながら、
精一杯に想像力を働かせて、
ハナシに付いてきてくださいね。


じゃあ、扉を開けるところから。
ハイ、開けますよお。

強烈な太陽光線。
下界とは青さの密度が違うオゾン色の空
幽玄の舞いのように谷の間から沸き上がってくる雲。
地衣類を這わせたかのような潅木の緑と、
残雪の白が鮮やかな山々。
稜線を左右に分けるように伸びる、
細く露出した山肌は登山道だ。

冷気と、草いきれの香りを含んだ少し強い風が、
Tシャツから露出した腕をなでる。
吸い込んだ息を、つい吐き忘れてしまいそうだぜ。


「山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりである。」

深沢七郎の傑作『楢山節考』の冒頭部分が思い浮かぶ。
目の前の景色は、まさにこうなのだが、
そうコーフンばかりしてもいられない。
深呼吸。
もう一度、深呼吸。
フハー、、、、。
いやあ、空気のおいしいこと。
煙草で疲れた肺胞を蘇生させるべく、
思いっきり吸い込んでは吐く。


小屋のほぼ正面、北に向かって、
すぐ目の前にある小高い山は、中岳。
ピークの手前、東側に大量に残っている雪渓が、
たぶん、金玉水という水場のはずだ。
中岳の後ろ、左側に見える稜線にあるのが、西朝日岳。

中岳の右側、つまり東側は、
急激に落ち込んで、谷になっており、
むくむくと湧きだす雲を挟んだ遥か向こう側にも、
朝日連峰の山々が幾重に連なっている。
遠いほど、透過率が減少して、
薄いブルーのフィルターをかけたように、
少しだけぼやけて見える。

日本海の上空はけっこう雲が出ているようで、
山際のバックは、もやって白っぽい。
雲の海にぽっかり浮かび上がっている、
左右に緩やかな裾野が広がる鈍角的な山が、
修験道で有名な月山である。
そのすぐ左側の奥に、
よく目を凝らさないと気づかないほど微かに、
鳥海山が見える。


東側に目を転じる。
両側に谷を配し、
馬の背のように東へ伸びる稜線が、
昨日、雨にたたられ、
ひいひい言いながら辿ってきたルート。
改めて見ると、
ピークひとつ高くそびえ立つ小朝日岳の姿も、
なかなかである。

山開きのために鳥原山へ向かう登山者が、
ケシ粒のように見え、その姿を覆い隠すように、
右手の谷から勢いよく雲が立ち上ってきている。


小屋から、50mほど歩くと、お花畑がある。
チングルマや、ヒナウスユキソウの白い花、
イワウチワや、ハクサンチドリのピンク色の花。
堕落中氏が、自慢のマクロレンズを駆使しつつ、
腹ばいになって写真を撮っている。


名残惜しいが、いざ、出発である。
濡れた登山靴をはくのは、ものすごく気持ち悪い。
新しく替えた靴下が、みるみる濡れてくる。

小屋から10分ほど登ると、大朝日岳のピーク。
360度の大パノラマが広がっているのだが、
先程大いに感動したばかりなので、興奮度はやや低い。
これから辿ることになる「中ツル尾根」の稜線が、
急な傾斜で下りながら南に向かって伸びており、
遥か遠くに朝日鉱泉の建物もはっきり見える。

すっかりくつろいでしまったのだが、
これから、正念場の下りが待っている。
しきりに写真を撮っているしもべくんを残し、
ヤマ師係長を先頭に出発。
歩き始めて、5分もしないうちに、
汗が吹き出し、腿の筋肉が悲鳴をあげる。
ハイマツ帯が、潅木帯に変わり、
やがて、樹林帯の中に吸い込まれていく。

遥か下に見えていたはずの左右の稜線が、
ほぼ同じ高さにまで近づいてきたかと思うと、
川のせせらぎの音が、かすかに聞こえてくる。
とはいえ、日ごろの経験から、川に下り立つには、
かなりの時間を要することは承知の上である。


最初の休憩の、何と、待ち遠しかったこと。
見晴らしのいい小さな広場で休んでいると、
堕落中氏が「あっ」と叫んだ。

「クマタカです、あれは。トビじゃありませんな」

日ごろから猛禽類に魅せられている堕落中氏の視線は、
青空を背景にして飛ぶ、黒い影に吸い寄せられている。
かのクマタカは、上昇気流に乗って、
緩やかで大きな円を描きながら、
空の彼方に消えていった。


下りである。
ずんずん下っている。
これでもか、と下っている。
確実に川の音が大きくなっているし、
ブナの木々が太くなっているのであるが、
先は、まだまだ長いのである。

長い距離を走っていると、
あるメロディーが脳裏をよぎり、
それが耳から離れなくなることがあるが、
登山でも同じことが言える。
この日、ぼくが繰り返し聴いた曲は、
ビーチボーイズの「Would'nt It Be Nice」だった。
(すっげえ、昔の曲だけど)

荒れる息遣いに、メロディーが重なり、
しばしの間、疲れを忘れるような気がするのだが、
実際の肉体疲労は、それを凌駕する。
とにかく、キツイ。

大朝日岳を出発して1時間半ほどで、
太いブナがまさにその字のごとく林立する、
気持ちのいい広場に到着。
長命水、の看板が出ている。

3人は、言葉も少なく、
木の根元にだらしなく座り込んだのだが、
ヤマ師係長独りが、水を汲むために、 薮の中に続く踏み跡の先に姿を消した。
10分ほどしてから、

「くわ〜、キツイぞ、この道は。行かなくて正解だ」

と言いながら、息もたえだえもどってきて、

「これが、長命水だ」

と、ペットボトルに汲んできた貴重な水を回してくれた。
水は、キリリ、と冷え、ほのかな甘味があった。
30分ほど休憩して、再び、出発する。


単調な言葉の羅列になるのだが、
やっぱり、下るのである。
あきるほどに下るのである。
ブナの脇を下り、
赤松の根が階段状になっている道を下る。


「コイカクシュサツナイはこんなもんじゃないよね」

「カムイ岳に比べれば天国だよ」

「石狩岳のシュナイダーコースを経験しているんだから」

などと、
経験した急峻な登山ルートを引き合いに出し、
自分を勇気づけ、奮起させる。
挙げられたルートがみんな北海道の山であることが、
けっこうマニアックだったりするんだな、これが。


左右から聞こえてくる川の音が、
荒い息遣いに負けない大きさに聞こえてきたとき、
やっと、眼下に、川面が見えてきた。

尾根を下りきり、左から流れてくる川を、
質素なつり橋で渡って本流の河原に渡る。
ここが「二股」である。
地図を見ると、登山道は、
ここから、朝日鉱泉まで、ずっと川沿いに進むので、
平坦な道を予想していたのだが、
なんのなんの、
決して小さいとは言えないアップダウンの連続に、
我々は体力と思考力のありったけを奪われてしまった。

男たちは、河原に下り立つ場所を見つけると、
次々にバックパックを投げ打ち、
へたり込むように腰を下ろし、
その場に尻を突き刺したように動けなくなったのであった。


ヤマ師係長は、
水際の石に腰かけるやいなや、登山靴を脱ぎ捨て、
青にも緑にも透明にも見える清流に、
はだしの足をつけている。

しもべくんは、
川から少し離れた平らな岩の上で、
バックパックの横に座り、
無言でカロリーメイトをほお張っている。

堕落中氏は、
背もたれのようになった岩に身体をあずけ、
放心したような顔で煙草をくゆらしている。

そして、ぼくは、
しもべくんの隣で大の字なって、
「う〜」と唸るのみである。

ブナの新芽ごしに、
緑の太陽の光が差し込み、
清流が風を運びながら流れている。
もう動きたくないぞ。


誰の顔にも、疲労の色が濃いが、
額にたまった汗の流れ落ちるあたりには、
確かな満足感が見え隠れし、
早く山を下りてビールを浴びるほど飲みたい、
という強い願望と、
この登山がまもなく終わってしまうことへの、
多少の落胆が交錯しているのであった。

それぞれの仕事があり、
それぞれの家族があり、
それぞれの生活がある。
気心知れた仲間と、同じ時間を共有することが、
歳を重ねるにしたがって、
だんだん難しくなっていることは、
紛れもない事実なのである。


先行の二人から、5分ほど遅れて、
ぼくと堕落中氏は、朝日鉱泉に到着した。
いやあ、くたくたになったよ。
本当に素晴らしい山なんだけど、
少しだけ、キツかったなあ。

恐るべし、朝日連峰。

このあと、全員が、
5時間以上の車の旅を余儀なくされるために、
乾杯は、車の中に放置され、
完全にホットコーヒーと化した、
無糖の缶コーヒー。
回し飲みをしていると、ヤマ師係長がつぶやいた。

「この4人で、今度は、どこに登ろうか?」


<了>

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