恐るべし、朝日連峰 中

(2002/6/15〜16)



6月15日(鳥原小屋〜大朝日小屋)


もしかしたら、ここまで読んだ人の中には、
「山」の情報が少なすぎるぞ、と、
感じた人がいるかもしれない。

しかし、ぼくは、
朝日連峰の地質的、地形的特徴がどうこうとか、
民俗、歴史学的特徴がどうこうとか、
はたまた、
各目標ポイントまでの所要時間だとか、
登山道の状態がどうだったとか、
なんてものを詳細に書くつもりはない。
だって、そんな堅いハナシ、
読んでも、面白くないでしょ、ね。

そんなことを知りたければ、
中高年のおじさんおばさんのバイブル
「山と溪谷」を読むなり、
登山地図やらガイドブックで調べるなり、
その道のエキスパートによる、
概論、解説のホームページを閲覧するなり、
各自努力をしていただきたい。


ヱビスビールを飲み、
インスタントラーメンを食べ、
満足して、タバコを吸っていると、
周辺で写真を撮っていたしもべくんが戻ってきて、

「今日は、写真、撮らないの?」

と、聞いてきた。

「いや、撮ってるって、これで」

と、首からぶら下げた、
コンパクト水中カメラの、
コニカマーメイドを掲げる。
雨や雪の時にも気楽に使えるから、
このカメラ便利だぞ。

「今日持ってきたのはそれだけ?」

「いや、いや。
 そうだな、天気も良くなってきたことだし、
 メインカメラを出すとするか」

そう言って、バックパックから、
ソニーのデジカメを取り出す。

「モータードライブを外した、いつものF3は?」

「ありゃあ、山では、スーパーサブなの」

隣にいたヤマ師係長が、その会話を聞いて、
「プッ」と吹き出し、

「F3がスーパーサブかあ」

と、会話に割り込んでくる。
今日、彼が持ってきたのは、まさにそのF3で、
しもべくんのカメラも、
モータードライブ付きのF3(プロ用の“P”)だ。

満を持してぼくがF3を取り出したので、
3台そろい踏みになった。

「なら、伝家の宝刀、F5はどうなのよ」

「ありゃあ、重すぎるから、2軍。自宅待機」

「じゃあ、これはどうですか?」

F3連盟から阻害された堕落中氏が、
自分のF50を掲げる。

「グッド」

「最適」

「理想的」

と、それぞれから声がかかる。

4人全員がニコンのカメラを使っているので、
各々が持ってきたレンズを交換できる。
山では、大きなメリットである。
何より、15ミリから80〜200ミリF2.8まで、
多種多様のラインナップを誇る、
しもべくんのレンズ群は魅力的だ。


4人で座り込んでいると、
木道を何人かの登山者が通り過ぎた。
はて?と思うのは、
みんな、フレームザックに作業着、といった、
山小屋の荷揚げをする人のような格好をしてるのだ。

水を汲むために、近くにやってきた人に聞くと、
明日、16日が、朝日岳の山開きで、
鳥原小屋に、100人以上の人が集まる予定なのだそうだ。

何故、主峰の大朝日岳じゃなく、
鳥原小屋に集まるかと言うと、
ここに朝日岳神社があるから。
そう言えば、山開きって、一種の神事だものなあ。

小屋の建物ばかりに目がいっていたのだが、
よく見ると、その手前に、こんもりとした茂みがあり、
鳥居の頭も見えるではないか。

ということは、鳥原小屋は、超満員間違いなし。
大朝日小屋まで足を伸ばすことにしておいて、
大正解である。


さて、たっぷり1時間ほど休憩したので、
鳥原小屋を出発することにしよう。

木道が設置してある湿原を通り抜け、
潅木に囲まれた鳥原山のピークを越えると、
しばらく下りが続き、一度樹林帯の中に入る。
とはいえ、標高が高くなっているので、
ブナよりも、ダケカンバの方が多い。

毎年、大量の雪の重みに耐えているために、
ダケカンバの幹は、上というよりも、
横に向かって伸びている感じである。

目の前にそびえる小朝日岳は、
割合からすると、まだ雪の方が多い気がする。
とにかく、ピークまでは、
まだまだ相当登らなければならない。

登山道の脇には、
イワカガミやらカタクリやらハクサンチドリやらが、
交互に現れて、登りの辛さを少しだけ軽減してくれる。

さっきまで、ほぼ真横に聞いていた、
カッコウやウグイスの声が、
下から聞こえるようになる。

再び空が雲に覆われはじめ、
風の香りに、強く湿気が感じられる。

ブナやダケカンバの幹が、
だんだん細くなるのと比例して、
ハクサンシャクナゲやナナカマドが目立ち始める。
森林限界を超えつつあるのだ。


突然、登山道が無くなった。
目の前には、大きな雪渓が横たわっている。
右手の谷側に目をやると、
そのまま崖のように切り落ちているので、
足を滑らせたら、ひとたまりもないだろう。
我々はもちろん、
アイゼンも、ピッケルも、用意していない。

「この先、小朝日まで、何カ所か雪渓があって、
 アイゼンが欲しいくらいだ、と書いてある、
 先々週登った人のホームページを見たんですが、
 ここですか」

堕落中氏が独り言のようにつぶやく。

先頭のヤマ師係長は、
それを聞いてか、聞かずか、
すぐさま雪渓によじ登り、
左手でササをつかみながら、
雪渓と土の境目に足先を蹴り込み、
ズンズンと前に進んでいく。

前に通過した人のであろう足跡が、
かすかに残っているので、
そこを辿ると決めたらしい。

適当な間隔をあけて、
それぞれが雪渓と戦い始める。

重力によって右手の谷側に流れる、
体重プラスバックパックの重さを、
ササを引っ張る両手で支えながら、
慎重に、慎重に、進む。

ササは、この雪渓の下にあった名残で、
谷川になぎ倒されているいるうえ、
雨に濡れているために、すごく滑りやすい。
急な登りには違いないのだが、
滑らないように最大限の注意を払っているために、
疲れを感じているヒマがないので、
けっこう、するすると前に進める。

目の前で、堕落中氏が、バランスをくずし、
「おっとお」と言うドスの効いた低い声を発する。


雪渓の縁をなぞるように進むと、登山道が「復活」。
しかし、すぐに、二つ目の雪渓が立ちはだかる。
今度の雪渓は、例え滑り落ちても、
ササが受け止めてくれそうなので、
少しは気が楽である。

同じように、ササの力を借りて、雪渓の縁を歩く。
気がつくと、小朝日岳は、すぐ目の前。
急坂を登り詰めると、
小さな広場状になっている頂上へ着いた。


座り込むと同時に、
無数の小さな虫が顔に群がってくる。
タバコを吸ったくらいでは逃げないので、
せんだみつお得意の「ナハ、ナハ」ポーズで、
負けじ、と応戦する。

黒いTシャツを着ているしもべくんの周りには、
人の形をなぞるかのように、
ものすごい数の虫が飛び交っている。

「前から、虫は黒い色に集まるって言ってるじゃん」

「速乾性のシャツは、これしか無いんで」

「虫除けスプレーいる?」

「いや、自分で、持ってきた」

シュー、シュー、という薬品の発射音が、
小朝日岳の頂上で、虚しく響きわたる。


下から急激な早さで霧が登ってきているために、
まわりの視界はあまりよくない。
それでも、大朝日岳へ続くほぼ平坦な稜線が見て取れた。
これから行くだろうコースを目で辿ると、
大朝日岳の手前で、白一色になる。
すんごい雪渓だぜ、あれは。


小休止をとって、いざ、出発、というとき、
ポツポツと雨が落ちてきた。
水中カメラを首からぶら下げているぼくを除いて、
みんな慌ててカメラをしまい込む。
急激に気温が下がっている感じがするのだが、
大朝日小屋までは残り2時間足らずなので、
誰もレインウエアを着込む様子を見せない。

まず、潅木の間を、ぐんぐんと下る。
岩と石と木の根っこが露出していて、
ただでさえ歩きにくいところに、
雨なんぞ降ってきたものだから、
つるつるに滑る。

体力を振り絞って、せっかく登ったのに、
登山道は、これでもか、これでもか、と下り続ける。
ああ、もったいないよお!
お願いだから、そろそろ勘弁してください!
ちくしょー、いい加減にしろよお!
などと、心の中で、何回叫んだことか。

雨は止むどころか、ますます強くなり、
木々を背景にして見ると、
幾条もの銀色の線、と言うより、
薄い白の絵の具を撒き散らかしたようになっている。
雨粒に脳天を直撃される度に、
頼りなくなりつつある髪の毛に思いが募る。
ガンバレ、毛根!負けるな、毛根!
これが酸性雨だったら、ヤバイな。

バカなことを考えているうちに、
ようやく稜線に出た。
道は、軽いアップダウン。
小さなお花畑が現れては過ぎる。
地表を覆う緑の葉を下敷きに、
チングルマの白、ハクサンチドリの赤。
雨でソフトフィルター効果がかかっているから、
鮮やかさの中にも、幻想性がある。
我々は、ここを、「ルンルン尾根」と命名した。


少し先を歩いていたヤマ師係長が、
立ち止まって待っている。

「なあ、この花は何だ?」

キスゲのような形をしたピンク色の花を指さして言う。

「ああっ、ヒメサユリじゃんか」

堕落中氏が興奮したような声を出す。
ヒメサユリは、まだ蕾だったけど、
雨の中で、気高く、しとやかに、優雅に、佇んでいた。

右手から、別の稜線が近づいてくると、
銀玉水という水場に到着。
目の前に、小朝日岳からも見えた、
大きな雪渓が立ちはだかった。
傾斜はけっこう急だし、何より、距離が長い。
雪渓からの冷気が、白い霧になって流れてくるので、
立ち止まっていると、寒い。

空になっているペットボトルに、
手を切るような冷たい水をたっぷり補給して、
いざ、大雪渓へ。


ひと足先に出発したヤマ師係長としもべくんは、
すでに、200mくらい先にいる。
小刻みに続いている足跡をなぞり、
かつ、爪先を蹴り込みながら登るので、
コモドオオトカゲのように歩みが遅い。

登っているときは、下ばかり見ているので、
あまり傾斜は感じないのだが、
振り返ってみると、ものすごくビビる。
高層ビルの窓際に立ったときなんかさ、
内腿のあたりがヒクヒクしない?
まさにそういう感じ。
もちろん、滑り落ちたら、大怪我間違いなしだ。

時間をかけて再び稜線に出ると、
もう目の前をさえぎるものはない。
朝日連峰の主稜線が、
薄い霧のベール越しに、
見渡す限り続いていた。

足下には、日本のエーデルワイスと言われる
ヒナウスユキソウや、ヒメサユリ。
うう、何て感動的なんだ!
これが、晴れていたらなあ!!

雨で体温を奪われたため、むき出しの両腕に、
刺すような痛みを感じるが、
小さな丘を登りきったところで、
新築のような、大朝日小屋が見えたので、
そのまま歩き続ける。

全身ずぶ濡れになりつつ、
16時40分、真新しい大朝日小屋に到着。
鋼鉄製の扉を開けると、
地元の人間らしいオヤジたちが、
フローリングの床をほぼ埋め尽くしてして、
鍋をつつき、酒を飲んでいた。

薄暗い小屋の中に入ると、
バックパックが急に重くなり、
ほとんど落とすように、床に投げ出した。
伸ばした右手の肩にへばり付いたTシャツから、
汗とも雨ともつかぬ水滴がポタポタと落ちる。

体力を振り絞って着替えると、
ようやく思考がもどってきた。
うん、実にきれいな山小屋である。
ヤマ師係長が、2階から下りてきて、

「おれらは、3階の屋根裏だ」

と言う。
1階よりもさらに広い2階も、
たくさんの人で埋まっているらしい。
やっぱり、山開きの前日。
山小屋を占領して静かに酒を飲む、
という我々のもくろみは見事に外れたのだった。


中腰にならないと頭がつかえてしまう「3階」で、
我々の宴が始まった。
階下で煮炊きする熱が昇ってくるので、
屋根裏部屋は、Tシャツでいられるほど温かい。

「お疲れさまでした」と言うが早いか、
各自持参のビールをあっと、言う間に飲み干し、
しもべくんが持ってきた飛騨高山のにごり酒をあおり、
ヤマ師係長が持ってきたスペイン産の赤ワインをすすり、
ぼくが持ってきたワイルドターキーを空にする。

2時間もしないうちに、
疲労した身体が宙に舞うような、
ふわふわとした気分になる。
これこそが、山の醍醐味である。

階下が静かになる前に、
我々は、各々の寝袋にもぐり込んだ。
熟睡。


つづく

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